8.値くずれの土地がやっと売れる。
 良好な付き合いがあってもお金がまつわれば、人間関係が悪くなったり良くなったりするもの。時と場合でその優劣が変化する・・・。お金と土地と人間関係。

 高槻市の城南町、私が住み仕事をしているところ。約100坪の土地に、建築してから35年経過している2階建ての家に、ばあさんが一人で住んでいた。

 知り合いの工務店経営者の紹介から相談にのることになった。その家の内装工事を請けて、仕事をしたことからの縁で私を紹介してくれた。平成4年のこと。

 3年前に最愛の夫を亡くした悲しみからやっとのおもいで気丈になってきたころに紹介された。 前年の平成3年には一坪当たり170万円で売買されていたが、いわゆる、バブルの崩壊で値くずれが加速していた。なにしろ、平成2年には坪単価200万円での取引があったところであり、物件の持ち主は2億円の夢を描いてもしかたのないことであった。ただし、坪当たり200万円といっても、一戸建ての家が十分に立てることができる区画の30坪から35坪の土地の売買価格のことであり、100坪となれば、坪単価が相対的に落ちる。その理由は、総額が大きいので需要者が少ないことと、当時の平均需要者は20坪ぐらいの土地に住宅を建て、生活している人が多く、違いが大きすぎることにより敬遠されるようになったこと。その結果、大きな区画での売却は困難となり、価格が下がる傾向にあった。

 敷地が接している道路はコの字型になっていて、乗用車が一台、ぎりぎりに通過できるだけの道。しかも、私道。通常なら10軒の敷地所有者が割合に応じてその道のスペースを共有しているはずのところ、そうではなく、35年前にミニ開発したときの業者が所有したままになっていた。残念なことに、このような道路状況も宅地がマイナスに評価される要因になる。経験からくる感のはたらきから、うっとうしい気分になったが、仕事のためと、ばあさんのために気合を入れなおすことにした。

 この土地で夫婦が苦労して男子二人を育て、大学をだしてなお、大きな家も作ることもできた。35年住んでいた場所であり、想い出深い町であった。おおきな愛着があり、別れがたい。しかし、老後の設計が実行の段階にきていた。階段の昇り降りが苦痛になり、段差の多い家の造りなので、老いの生活がむつかしくなっていた。

 ばあさんは私の母親と同じ年、神奈川で生活している息子家族と同居することで意見がまとまり、自宅を売却することに決めた。そして、売却収入を得ることになれば、息子たちとの生活をする上で肩身が狭くならないようにしたい、との思いから、できるだけ高く売れることを望んだ。気持ちはよく分かる。ばあさんのために高く売ることができれば仲介手数料も比例して多くなり、おたがいにとってハッピーである。

 かなりの希望をとりいれ、坪当たり120万円、1億2000万円で売り出すことにした。4,5メートルの道路が接し、面積が30坪ぐらいの土地であったら坪当たり150万円、1億5000万円が売れごろと思われたが、前記の理由で1億2000万円の販売すら厳しい価格となっていた。

 販売するための契約、専任媒介契約をする。当社だけが3ヶ月を期限に販売できることになった。 1億2000万円の古家つき土地として、図面をつくり、チラシにのせて売り出す。不動産の流通機構にも登録して同業者に販売依頼する。

 3ヶ月間営業活動するも、購入者が現われる気配はなく、専任媒介契約を更新して販売できる期間を延長する。6ヶ月経過して数件の引き合いはあったが契約に結びつくような希望者は見つからなかった。経費だけを使い、大きな損失で終わることになった。残念だったが仕方がない。当初からのばあさんとの約束だから。

 1ヶ月ほどして、再度、売ることを頼まれる。ただし、自分を含め3件の業者に依頼することになった。一般媒介契約の方式ですすめることになり、先にお客さんを見つけて契約した業者だけが仲介手数料をもらえることになる。できなかった業者は一銭の報酬も受けることができず、結果的に損失が増えるだけとなる。厳しい商売である。仕事はするが予定した結果がでなければ、収入はゼロ。それだけでとどまらず出費が増加して大赤字で終わる。じつに因果な商いといえる。

 3件の業者が競って販売に乗り出した。しかし、3ヶ月が過ぎても売れずにそれぞれの業者はそろって更新する。同時に販売価格を下げて1億円とした。三業者そろって必死な営業を開始した。 あるとき、A業者がお客さんを付けたとの連絡が入り、いよいよ終わったと観念した。1週間して売主から電話があり、交渉が没になったと聞く。私は「やれやれよかった」と、しんそこおもった。残念だったのは、ばあさんとA業者。

 売れることなくして、6ヶ月が過ぎたので、販売することを中止することにした。時代が変わったというか、自分が専任媒介して以来、一年が過ぎて相場がどんどん下降し、終わりのない坂道を走っているようにおもえた。売主が納得する価格の1億円では到底、販売できないと三業者ともに思っていたので、かかわりを持たなくなっていた。

 私は近くで営業していることもあって、ときどきは顔をだして世間話をしていたが、販売のことについて、多くは語らなかった。彼女は悲観的になり、このところの販売活動の疲れで意気消沈ぎみになっていた。百万、千万単位で値下げするので並の心労ではない。数年よけいに年齢を増やしたようにも見えた。私のためにも、ばあさんのためにもなんとかして販売したいと一層おもうようになっていた。

 販売を中止して6ヶ月したころ、ある仲介業者が来店し、その土地を買いたいと交渉にやって来た。買い客が建売業者で8,500万円の指し値。翌日、ばあさんに掛け合う。粘って、9,000万円の了解を取り付ける。その翌日、仲介業者に報告して9,000万円での了解を求める。 2日のち、8,500万円でなければ、契約できないと、返事が入った。とりあえず、商談は決裂する。またしても、失敗。ばあさんも私も残念がった。建売業者は4件の住宅を建築して、販売することを考え、採算を熟慮した上で指し値しているので、交渉が譲れないのはよく理解できた。仕方がない。

 この事がきっかけで、知り合いの建売業者に売り込むことを考えついた。プランを作り、4個の住宅を建て、完売したあかつきにはその業者の利益はいくら見込まれるかを企画した。そして、プランを持ち込む。検討の結果、8,700万円で購入する意向を示してくれた。

 城南町の彼女に連絡すると、喜んでその価格にて売却することとなった。一年半を費やして、やっと、おもいが叶い、契約する運びとなる。感無量の心境。経費を使って、長い間、活動してきた甲斐があった。

 面識ができて2年近くが過ぎ、やっとのことで売買契約をすることができた。途中、2度も販売を中止してあきらめかかったこともあった。しかし、ばあさんのことを気にしたことが、他の同業者より少し勝っていたかもしれず、幸運にめぐり合うことができた。契約することができなければ約100万円の損失になっていたところ、売り手と買い手の両者から仲介手数料、(260万円+260万円)520万円を受け取ることになった。

 悲観的なことが続いたあとに良いことがあった。そう度々はないとおもうが、コツコツと仕事をして、取引の当事者である利害関係人の苦労や健康を気づかいながら、やれてきたことが好結果に結びついたようにおもう。

 ばあさんは神奈川県で新築を建て、息子家族と同居して穏やかに生活をしていると、年賀ハガキをみる。