「大阪茨木市にある家を売りたい」、と電話があり面会日を設定した。大阪府と隣接した県から来店、いろいろと話を聞くと、以前、私の関係した物件で縁の濃い変わった案件だった。 父親が亡くなって子供6人が相続する。その財産を売って6人で分けることを考え、来店した。長女、長男、次女、次男、三男、四男のうちで次男が熱心に動いていた。当社の窓口も次男であった。長男は成年被後見人になっていて弁護士が代理的な仕事をしている様子で、相続財産のうち現金・預金のほとんどが長男の名義になっていた。何故そうなったかは不明で、次男の意見が唯一の情報源となり、家を販売、又は賃貸するため積極的に大阪に来るようになった。 長男と次男以外は大阪に住んでいるので面会することができ、相続についての意見を四人から聞くことが出来たが、次男とは分配方法で一致していないことが分かった。5人が合意するために、話しあう機会を多くすることをすすめ、お互いが譲歩するよう説得する。一方、長男の代理人である弁護士にも、次男を通じて不動産を処分することについての同意を求めた。しかし、サインはしないとの返事が返ってきた。 私が関係した物件以外に5件の不動産があり、査定の結果、同じくらいの評価になったことで、5人がそれぞれ一個を所有することで話し合い、妥結するようにすすめるが、話し合いがつかなかった。結局は、裁判所に調停を申請することになる。一ヶ月に一回のペースで調停が行われたが、8回目になっても合意にいたらず、時間だけが消費されるだけとなった。 次男は急いで協議を成立させ、不動産の所有権を確定して資産を運用したいと考えていたが、他の兄弟たちは特別に急がず、平等に配当されることを期待していた。しかし、次男は他の兄弟より親の面倒を多く見てきたと主張して、それ相当の評価をしてもらうことにより、付加された配当を受けることを望んでいた。 被後見人の長男は精神に障害があり、不憫な生涯になっているために、亡くなった父親が預貯金を贈与したのではないか、と代理人である弁護士が想像していて、5人5様の立場で、考えや希望が異なり、譲りあうことはなかった。 一年半の間、相談に乗り、アドバイスをしてきたが、相続に係わる利害のある人たちが、意見を調整されて合意を形成されることが、いかに難しいことかを、改めて感じることになる。 この物件についての最初の縁は平成4年に始まる。購入予定のお客さんが建売業者の下取りした物件を、私の仲介によって売買契約したときのことだった。この取引は、売り手業者の仲介と購入者の仲介を私だけでまとめたので、売り買いの両方から仲介手数料をもらえた。関係者全員が納得した取引をすることができ、しかも当社にとっても収入の多い仕事ができた。購入当時は一人の子供さんだったが5年後には3人になっていた。子供たちは大過なく育っていたが、家が手狭となり、広さにして2倍ぐらいの家を買い換えることになった。持ち家の販売と購入を同時に進めることになる。 販売を始めてから約2ヶ月して持ち家の購入希望者が現われる。しかも、同じ時期に希望に叶った買い替え物件を見つけることが出来た。また、自宅を買ってくれる購入希望者は住宅ローンの利用がなくて現金で決済できる方であったことから、買い替えの流れがスムーズに進めることができた。自宅を売って、その資金を基にして次の住宅を買う、誰もが望む理想的な住み替え方法といえる。決済をして引渡しも無事に終えることができたので一件落着の心境になっていた。 幸運に経過した人達で、いまでもお付き合いをさせてもらっている。ここまでの流れは良かったといえる。 その後の縁は不運で気の毒な展開になっていった。現金で住宅を購入したのが被相続人の亡くなったおじいさんであり、契約したときに当社において、仲介業者と一緒に来店したときのことを思い出すことになる。 平成9年のころだった。おじいさんが入居して後、ときどきは家の前を通るが、玄関の付近に電気の部品やプラスチックの板や箱が置いてあり、特別、気には留めなかった。息子さんが別居していて、たまには、おじいさんのお世話をしに来ているものと思っていた。 半年後、異変に気づく。敷地から玄関の入り口までの庭と駐車スペースは、併せて畳の数15枚ぐらいの大きさがあり、その敷地全体がゴミとガラクタの山になっていた。家の中に入るためにはゴミ山を上り下りして、又、掻き分ける以外、入れない状態になっていた。 周辺の人達に聞けば、めったと住人を見ないが日に日にゴミが増えて山となったらしく、他人の所有地のことゆえに、とがめることもできずに悶々としていたようだった。 その後、近所の顔見知りの人達から苦情がときどき私にあって、しばらくは見に行っていたが、これ以上には物が置けなくなっていたことと、近隣に迷惑のかかることでもないことでもあり、おじいさんに注意することはなかった。もっとも、見かけによる嫌悪感と何らかの環境の悪化は否めないが・・・。 おじいさんが居住してから以後、夜な夜な長男が廃品を集め、ゴミ山を造っていったものと想像できた。人の気配を感じなかったようで、ほとんどの人達は顔も覚えていないようだった。被後見人の長男は昔から物集めが趣味であり、生甲斐のようでもあったと、兄弟が言っていた。 今回の相続による相談の電話があるまで5年ほどの日数がたっていたので、私にとっては過去の出来事が戻って、再現されたような気分になった。 相談者の次男と茨木の現地に行く。敷地のゴミ山は変わらず存在していた。何とかして玄関には入ったが、ゴミの壁のために進入することができなくて、出直すことになった。 再度挑戦、室内に侵入。ゴミを押し込みながら少しずつ後ずさり又ゴミを詰める。このような作業でなければいっこうにはかどらない。昔、倉庫会社で作業をしていたころを思い出す。多くの量を有効に整理整頓するには、立体的な計算と運動神経が必要なことで作業員の能力がものをいう。対象がゴミガラにしても、よくも、ここまで詰め込んだものと感心した。外のゴミ山の数倍の量が部屋の中に詰め込まれていた。 久しぶりに現地に行くと、近所の人達が待っていたように、何とかしてほしいと何度も懇願された。 ゴミガラを搬出、撤去することで話し合いができた。その費用は相続人の一人次男が負担することになり廃品の処理業者が請負って、無事に作業をすることができた。周辺住民の多くの人達にとっては、つもりつもった嫌悪感を取り除くことができたので一安心となり、当社は当社で収入には結びつかなかったが得心した仕事と思えた。 相続人の合意ができることを前提に営業活動を進めてきたが、調整がつかず、今なお、調停という他人頼みの兄弟げんかを続けている。思いやる気持ちと譲歩がなければ何の解決もしない。第三者を交えた決着も妥協の一つ。決着はついても目に見えない紛争と憎しみは一生続くことになるが・・・。 遺産を分割する協議が成立しないままの財産の処分は、全員の合意がなければできないことから、当社は販売や賃貸することを中止することにした。 不運な流れのときはあたりいちめんにその不運が浸透するものと感じ入ったしだい。 縁あって、一件の物件に10年間係わり、思えば、幸運で過ぎた人達、不運の流れの人たちと相対する生活と人間模様を垣間見ることになったしだいであります。 |